からだの理(ことわり)
山本義春 (東京大学大学院教育学研究科)
ホメオスタシス
物理学が「物理現象の原理」を追及するのと同様に、生理学は「生命現象の原理」を追及する学問である。そして物理学で「ニュートンの運動の法則」がその基本原理であったように、「キャノンのホメオスタシス」は、今世紀の生理学の基本原理であった。ホメオスタシス
(homeostasis)とは、同一の(homeo)状態(stasis)を意味するギリシア語からの造語で、「生体内の組成・物理的状態を一定に維持する機能」を表わす生理学用語として、今世紀初頭の米国の生理学者キャノン(Walter
B. Cannon)により命名された。わが国では、「生体恒常性」などとも訳されている。
これがどのくらい基本的な原理であるかは、たまたま筆者の手元にある3冊の生理学の教科書の、いずれも第2ページにその記載があることからも伺える(要するにまず最初に書いてあるということ)。これらの記載を要約すれば、「われわれが個体として生命を維持していくためには、ホメオスタシスを保つことが必要であり、何らかの原因により、体内のホメオスタシスが著しく乱されると病気になる。ホメオスタシスが保たれるのは、生体に自動調節機構が存在するからであり、その作動原理は負のフィードバックと呼ばれる。」とでもなろう。
われわれのからだの中で一定なものの具体例として、動脈血二酸化炭素分圧( )を取り上げる。二酸化炭素は別名炭酸ガスと呼ばれるとおり、体内の酸性度を規定する重要な因子であり、通常ヒトの は 40mmHg程度に保たれている。そして「なぜわれわれの はいつも40mmHgに保たれているのか」との問いに対して、ホメオスタシスの原理は以下のような説明をする。
脳内には、化学受容体と呼ばれる のセンサがあり、このセンサが現在の のレベルを常に監視している。例えば代謝による二酸化炭素産生量が増えたりして が設定値(=40mmHg)よりも高くなると、脳内の呼吸中枢が刺激され、換気量を増やして余分な二酸化炭素を体外に排泄し、 を減らそうとする。一方換気量を増やし過ぎて が設定値を下回ってしまった場合は、換気を抑制して、体内の二酸化炭素レベルを維持しようとする。結局血液中の二酸化炭素レベルに変化があると、呼吸中枢がその変化を打ち消すように働いて呼吸調節反射が起こってくる。すなわち は負のフィードバック機構によって調節されている(図1A)。

ところでこのような 調節機構は、少し考えれば(最近の)室内空調機の動作原理と全く同じであることに気付く(図1B)。すなわち、化学受容体が室温センサであり、換気量が温風あるいは冷風ファンにあたるし、設定温度からのズレに応じてどの程度ファンを回すかの決定も、最近の機械では「ニューロ〜」と呼吸中枢(の神経細胞)を彷彿とさせるような演算装置が行っている。
したがって、このような自動調節機構を「生命現象の原理」と呼ぶなら、そこには生体固有の構造は不要であり、ヒトの 調節でも空調機による室温調節でも、その内部での「(制御)情報の流れ」という機能的側面のみが重要となる。これは大変な思考の簡略化であり、キャノン以降、ウィナー(N.
Wiener)に引き継がれ、「サイバネティクス」という新しい学問の原動力となっていった。
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ホメオダイナミクス?
少々乱暴なようだが、今世紀に出版された生理学の教科書の相当数は、上記のようなホメオスタシスの原理を中心に構成されているといっても過言ではない。何しろ に限らず、血圧でも体温でも、構造を離れて統一的に調節原理を語れるのであるから、その魅力は大変なものである。さらにこの原理、特に負のフィードバックによる調節作用の概念は、生理学を離れても、「苦あれば楽あり」というわれわれの思考様式と奇妙にマッチするところもある。
そんなわけで本書においても、次章以降ホメオスタシスの原理を念頭において「からだの理」についての理解を深めていただいて一向差し支えないのであるが、少し変わった読み方をお望みの読者のために、最近の話題にもいくらか触れておくことにしよう。
実はよく調べてみると、われわれの は一定(40mmHg)に保たれてはいない。図2は、ヒトの安静時の を、その推定値とされる肺内の二酸化炭素分圧によって60分間にわたって示したものである。全体を平均してみれば確かに は40mmHgくらいに制御されているのだが、その変化には大きな「うねり」が存在し、所々で40mmHgとは大分離れていることがわかる。特に10〜15分のところでは、かなり長期にわたって が設定値より高くなっており、このとき図1Aのフィードバック系が働いていれば、数秒のうちに換気量を上昇させて を低下させるはずである。したがってこの場合、この時間帯に調節系が作動していないか(とりあえずあまり考えられない)、設定値自体が42mmHg程度に上昇しているかのどちらかが起こっていることになる。

負のフィードバックによる調節は、通常設定値からのズレに対しては有効に働くが、設定値自体がズレることについては何も語らない。そして、「状態の変化→設定値の変化」と対応がつく場合はまだマシなほうで(実はそんな単純な対応関係はないのだが)、図2のように設定値が時々刻々と変化するような場合は、もはや手のつけようがない。実際、血圧や体温、心拍数の経時的変化などを調べていると、「果たして設定値などあるのか?」と思わず目を疑ってしまうことが少なくない。 調節の例でいえば、むしろ「きっちりと40mmHgに設定していないのに、どうして平均的に40mmHg近辺に落ち着くのか」と問う方がしっくりくるのである。
このように、生体の安定性は、ホメオスタシスすなわち一定状態というよりも、むしろ一定の「動態」、あるいはホメオダイナミクスとでも呼べるものかも知れない。そして、このような生体の動的安定性がどのような原理によるものかは、現在のところ全く知られていない。
また、少し考えてみれば分かるように、「なぜわれわれの はいつも40mmHgに保たれているのか」という問いに対する負のフィードバックによる説明は、「なぜ〜保たれているのか」との説明にはなっているが、「なぜ40mmHgなのか」という点には答えていない。空調機の場合ならいざ知らず、「設定値が40mmHgだから」というのでは、まるで禅問答である。
血液中の二酸化炭素分圧は、換気量、代謝量はもとより、体液の(酸の)緩衝剤の量などにより影響を受ける。動物の体重あたりの換気量や代謝量は、からだのサイズが小さいほど大きく種によってまちまちであることが知られているが、それでもなお哺乳類の 調節系の設定値は40mmHgであり、しかしながらカモでは30mmHg、カエルでは10mmHg、ニジマスでは2mmHgとなっている。したがって、「なぜ40mmHgなのか」という問いに真剣に答えようとすれば、哺乳類の体液組成が、進化の過程でどのようにできあがってきたのかまでを問わねばならいことになる。こういった問題を、生体の構造を離れたフィードバック調節の図式で十分に説明できないことは明白であろう。
ホメオスタシスのような説明能力の高い一般原理であっても歯が立たないほど、「からだの理」は奥が深いのである。
(からだの理. 武藤芳照編.丸善ブックス, より)
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参考図書
ホメオスタシス、あるいは生体調節の生理学についての入門的図書としては、
- 真島英信. 生理学. 文光堂, 東京, 1986.
- Wiener, N. Cybernetics. MIT Press, Cambrige, 1961.(ウィナー. サイバネティクス.
池原他訳. 岩波書店, 東京, 1962.)
- 諏訪邦夫. 人体の制御. 真興交易医書出版部, 東京, 1992.
ホメオダイナミクス(仮称)に関連する文献としては、
- 野崎大地,山本義春. 生体の
ゆらぎとその解析法.BME 8(10):5-12, 1994.
- 合原一幸. 生命・カオス・工学. 数理科学 381:5-10, 1995.
比較生理学(比較動物学)の入門的教科書としては、
- Dejours, P. Principles of comparative respiratory physiology. Elsevier
Biomedical Press, Amsterdam, 1981. (デジャール. 呼吸生理学の基礎. 落合他訳.
真興交易医書出版部, 東京, 1983.)
- 本川達雄. ゾウの時間ネズミの時間. 中央公論社, 東京, 1992.
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からだの理
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Yoshiharu Yamamoto
1998年06月06日 (土) 14時23分47秒 JST
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